序文
以下の文章は、倫理について、私の現時点の考えを書き留めたものです。
この文章には「特定の人物を断罪している」と受け止められかねない言葉や表現が含まれています。
ですが、これはその人物の言動の是非を問うものではありません。その人物を説得したいわけでもありません。人物の評価をしたい訳でもありません。
最終的な結論だけをここに残せば、それで良いのかもしれません。
しかし、何がキッカケで、どのような文脈で、私が何を考えたのかを、抽象的な言葉や意図的にぼかした主語ではなく、誠実に、正直に全て書き記しておかなければ、記録として意味をなさないと考え、全文をここに記します。
1
ここ最近のX上での、Grokを使った他人の投稿画像勝手に改変する問題を見て思い出した。
3年前、私の写真を勝手にAI美女化フィルターで加工して見せられた事…。
ある意味、あの時のあの人は(最悪の意味で)最先端の倫理観(の欠如)だったんだな、って。
私の友人にまで見せようとしたので「勘弁してくれ」って頼んでやめてもらったけども、結局はそれ以前の問題。
倫理観の欠如と悪意が無い事が重なった時、人は他人を傷つける。
「そんなつもりじゃなかった」は免罪符にならない。
2
「祖母が亡くなりました。今週末の予定はキャンセルさせてください。」と伝えた、その日の夜。
DMで転載アカウントのネタツイートが送られてきた。
きっと、あの夜に全部が壊れていたと思う。
初七日、四十九日、仏教由来の日本の文化。
私は仏教徒ではないけれど、「なるほど、故人を思う時間を無神経な人間から守るためにこれら日にちは設定されているのだろうな。」と思った。
宗教の存在感が希薄になった現代でも、日常に残る「しきたり」の一つ一つに、文脈と意味と背景がある。
それが社会の「常識」や「文化」。それは少しずつ時代に応じて変化していくものなのだろう。
そして、その変化し続ける社会での経験を、咀嚼し、積み重ねていく事。
それが「倫理」の正体なのだと、私は思う。
たとえ国や文化、時代が違っても、愛する家族を亡くした人に向き合う姿勢に、違いはさほど無いだろう。
それは面白い動画を拾って見せる事では決して無いはずだ。
3
突然、私の耳元で、わざとポテトチップスを「バリバリ」と音を立てて食べ「ASMRだよ」って言われた事。
全く嬉しく無いどころか、ものすごく不快だった。
「それはやめて。もう絶対しないで」と言ったけど、本当は押し退けて怒鳴りたいぐらい嫌だった。
自分が過敏なだけか?と不安になった事もある。
その後、突発性難聴もメニエールも経験して、今も日常の半分は耳鳴りを聴いて暮らしてる。
もちろん、耳の不調は加齢とストレスの結果であって、あの体験は直接の原因では無い。
それをわかっていても、嫌な気持ちを思い出す。
ASMRというエンタメは「過剰に誇張された音を、わざわざ自発的に聴きたいと思う人が自ら再生ボタンを押す」ものだと思う。
突然、耳元で咀嚼音を聴かされて、「生のASMRライブだ」と喜べる人なんているだろうか。
4 (結び)
自分がやった事を、自分がやろうとしている事を、
「受け取る人の気持ちになって考えてみる」
自分が受け取った言葉を、された事を、
「相手はどんなつもりだったのか考えてみる」
他人を、他人の人格を尊重するってそういう事なんじゃないだろうか。そして倫理とは、自分が他人と向き合う姿勢なのではないか。
尊重しようとしているのは、私の想像する他者の倫理。
それは私の倫理の枠の中でしか想像できない。
その枠が私の心の狭さなのかもしれない。
想像した他者の倫理が、自分の倫理の枠をはみ出した時、私は相手を断罪しようとしてしまう。
他者の倫理の本当の形、それは絶対に分からない。
けれど、「この言葉は、行動は、誰かを傷つけてしまうかもしれない」というブレーキを捨ててしまう事はしたくない。
「これを言ったらどうなるか」なるべく立ち止まって考えたい。
「言わずに心に留め置く」事も選びたい。
しかし、自分の倫理を、人格を守るために、
ブレーキを踏めない時はある。
ブレーキを踏まない時もある。
感情的になるというのは、そういう事なんだろう。
人格は、倫理と感情でできているんだと思う。
自分と向かい合っている人格も、その人の倫理と感情でできている。そのどちらも否定しない事が私にとっての「尊重」。
けれど自分の倫理を守るため、相手を尊重できない事もある。
その時は、距離を離すことしかできない。
断罪しないで済む距離まで。
自分が壊れてしまわない距離まで。